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ページ (ISBN : 4006020376) ¥ 円 J・ルーカスとS・スピルバーグを持ってして「現役の世界最高の映画監督です」と言わしめた「黒澤明」の自伝。
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米国映画芸術科学アカデミー会員。
栄典及び称号は、従三位・文化勲章・国民栄誉賞・文化功労者・東京都名誉都民。
1910年、元軍人で学校法人日本体育会理事の父の元に生まれる。
小学校時代、終生の友となる植草圭之助と出会う。
当初は、画家を志して日本プロレタリア美術家同盟に参加、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わり二科展にも入選した。1936年、画業に見切りをつけて26歳で100倍の難関を及第し、P.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。
1943年、『姿三四郎』で監督デビュー。
以後、終戦を挟んで『一番美しく』『わが青春に悔なし』『素晴らしき日曜日』『醉いどれ天使』『野良犬』などの、社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表し、東宝の看板監督の一人となる。その後、東宝争議の混乱を経て、成瀬巳喜男らと映画芸術協会を設立し東宝を退社。
1950年に大映で撮影した『羅生門』は、1951年にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。ヒューマンドラマの傑作『生きる』を発表し、ベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。
1975年、ソビエト連邦から招かれ、『デルス・ウザーラ』を製作。
それまでの作風と異なり、極めて静的なものであったために、日本国内では酷評も出たが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞し、ソ連側の期待に十二分に応え、日本国外では黒澤復活を印象付ける作品となった。
1976年11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。
1985年11月、文化勲章受章。
1990年米アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグに『現役の世界最高の監督です』と紹介される。
1998年、脳卒中により死去、88歳。叙・従三位。 同年、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。 翌年には米週刊誌タイム・アジア版で『今世紀最も影響力のあったアジアの20人』に選ばれた。
『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』の合戦シーンで、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っている。
黒澤明を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどであり、主役格が『七人の侍』の影響からか7人である映画は非常に多い。
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